太平洋戦争後の播州釣針

太平洋戦争後の播州釣針
昭和20年8月終戦と同時に政府は、「金融措置令」や復興支援のため「傾斜生産方式」などを採用した。当時の業界指導者は、今後の日本経済の動向を十分に洞察、いちはやく釣針製造業者の再編と品質向上にたちあがった。そして昭和22年3月に業界の組織化と品質管理を目的とした播州釣鉤工業協同組合を結成、これが現組合の前身となる。


ちょうどこの年、「制限付民間貿易」の許可により海外から原材料が入るようになり、釣針業界はにわかに活気づいたのである。

戦後から高度経済成長期

昭和24年、焼き入れ行程に電気炉・重油炉が導入され、電気鍍金が採用された。こうした技術の近代化は、昭和25年の朝鮮戦争による特需景気の後押しでさらに伸張していった。
 
昭和25年、「組合法施行法」により団結と品質の向上を図るため、「兵庫県釣針協同組合」が結成された。しかし、朝鮮戦争が休戦となり特需景気は急速に下降、売らんが為の値引価格競争が極限にまで達した。そこで業界の沈没を回避するため昭和28年8月に「改定価格表」を作成、組合員に厳守させた。輸出用商品も同様で、商品の厳格な検査を実施するとともに品質の徹底的な改善を計るとし、「輸出向釣針協定価格」を通産省へ提出、それが許可されたのが昭和29年3月のことである。
 
また、昭和31年には「工業標準化法」が制定され15業者が申請、2年余りにわたる厳しい審査を経て、昭和33~35年にかけて13業者に「JISマーク」(日本工業規格)が許可された。これにより播州釣針のすぐれた品質は保証され、国内外の信頼が倍増する事となった。

高度経済成長期から現在

昭和30年前後の業界は、生産の機械化の進歩と協定価格の設定などによって表面的には順調な伸びを示していたが、その影には中小企業としての悩みが深刻化しつつあった。この頃の釣針業界の現況を当時のリーダーの一人は、次のように記している。
 
「兵庫県釣針協同組合は加東郡を中心に68業者で結成、全国生産の80%以上を占めるに至った。また国内需要40%に対し輸出60%以上の進展を示し、需要量が生産量を上回る好況ぶりである。特に最近、県下の特殊産業品目に指定され、生産地として磐石の位置を固めつつある。しかしながら、近時は都市大工場が急速に拡大、それに比してわれわれ中小企業は深刻な打撃を蒙りつつある。その原因は、資金の裏付不足、設備の貧困、人手不足の3点にある。特に最近は新規学卒者はめったに得られない現状である。」
 
かって釣針業界は経済界の直接的な影響が比較的少なく、不況に強い産業と見られていた。しかし、バブル崩壊後は、それも昔日の夢と化してしまった。業界をあげて涙ぐましい経営努力をかさねつつ、生き残りを模索してきたが、その具体的な方策は他の生産業界と同様に工場の海外移転であった。生産コストの切り下げ、特に高騰を続ける人件費の抑制は、それ以外に方法がなかったのである。現在では、手作業を必要とするレジャー関係釣具加工の90%以上は海外工場に頼っている。
 
この海外移転は、昭和40年代から50年代へかけては韓国・台湾が主であったが、昭和60年代頃からは中国・タイ、そして平成5年以降からはベトナムが主力となりつつある。当初海外工場の建設は地元資本との合弁の形でしか許可されなかったが、今では日本の単独の工場も多くなった。
 
現在、組合員たちが製造する製品の数は、用途・形・サイズの面から見て約3,000種類、それに色彩を組み合わせると15,000種以上だという。そして、かっては圧倒的に多かった漁業用の釣針が激減し、レジャー・遊漁用が主となり、その比率は2対8という。また、輸出用と国内用は7対3、輸出先は世界各地である。

世界の主要メーカーは、ノルウェー・フランス・アメリカなどで、特にノルウェーはマスタッド社であるが、伝統にものをいわせて世界市場の何割かを占める。しかし、大形針は日本製が優位を保っているという。なお、アジアでは韓国に大手1社、中小2社があって、比較的安価な釣針を売り出している。中華人民共和国でも30社が誕生、生産量のピッチを上げている。